飲用乳の表示

目で見る表示の歴史

明治2年頃の広告

大阪の牛乳店が出したもので、外国人もびっくりする程の品質のよい牛乳やれん乳を販売しているのを現わしている。頭の部分でかくれているが「牛乳販売処」と読む。牛乳の広告では早いものであろう。

明治2年頃の広告

明治2年頃の広告

明治6年頃の乳類の販売店

明治時代の劇作者伯垣魯文の「安愚楽鍋」という小説にあるさし絵で、浅草蔵前にあった牛鍋屋「日ノ出屋」の店先の図である。のれんに書かれた酪農製品が売られていた。

明治6年頃の乳類の販売店

明治6年頃の乳類の販売店

明治20年頃の広告

このチラシは、コレラ・チフスの伝染病が流行したときのもので、牛乳は「滋養品大王」として、牛乳の効用6項目をあげて宜伝している。

明治20年頃の広告

明治20年頃の広告

明治21年頃の広告の一部

東京・飯田町のモチノ木坂にあった前田喜代松の北辰舎という専業牧場で出したもの。この当時から図のように栓紙を貼って日付を表示していた。

明治21年頃の広告の一部

明治21年頃の広告の一部

明治30年の広告

三重県の鈴木牧場の牛乳販売店の開業広告である。「近村は朝夕2回配達する 」として、すでに牛乳の配達が行われていた。

明治30年の広告

明治30年の広告

明治31年の広告

東京・麹町3丁目にあった阪川牛乳店が博文館の雑誌に出した広告である。当時は博文館といえば大出版社で、この雑誌に広告することは大変なことであった。牛乳の価値が高く認識されるようになった証左であろう 。

明治31年の広告

明治31年の広告

明治38年の広告

地方の盛進軒という牛乳屋のチラシである。これより先明治33年に「牛乳営業取締規則」が改正され、ガラスびんの口金もニッケルとなっている。

明治38年の広告

明治38年の広告

明治45年の広告

この頃になると、乳牛の種類を入れた広告がでてくる。この年に政府は乳牛をエアシャーとシンメンタールの2種に指定した。そのためエアシャーの牛乳は宣伝効果があった。

明治45年の広告

明治45年の広告

大正6年のポスター

東京の牛乳屋が共同で作ったポスターである。マンガ風に人物を描いて牛乳を宣伝した。すごろく風にしたものも出た。いずれも小児への消費をねらったものである。

大正6年のポスター

大正6年のポスター

大正6年頃の広告

徳島県の撫養(むや)の共同搾乳所が配布したもので、「蒸気殺菌」をキャッチフレーズとしている。婦人の手にする細口びんや飛行機がその時代を示している。

大正6年頃の広告

大正6年頃の広告

牛乳びんの歴史

1合入りガラスびんは明治22年に登場し、初めはコルク栓、木栓、瀬戸栓などが使用されていたが、明治33年の内務省令により機械口びんが主流を占めるようになった。

左:明治中期よりの機械口びん
右:大正末期頃よりの王冠びん

左:明治中期よりの機械口びん
右:大正末期頃よりの王冠びん

王冠びんは大正末頃に現われ、昭和2年に東京府警視庁が牛乳容器は王冠びんと規定してから、機械口びんは王冠びんと変わっていった。

ガラスびんの前は、はかり売りから始まり、明治14年頃家庭に配達されるようになってからは、ブリキ缶や陶器びんが用いられていた。

大正末期頃よりキャップ用びんが使用され始めた。昭和2年の警視庁令により、牛乳の殺菌法が低湿殺菌法と許可制の高温殺菌の2法に規定されたので、殺菌法は低温殺菌法が主流となったが、この頃からこのために輸入されてきた牛乳プラントの機械はキャップ用の仕様であったため、王冠びんはキャップびんに移行していった。 

後に昭和9年の警視庁令で「王冠栓」と共に「紙製密閉栓」が認められる。

キャップ用の1合びんと5勺びん

キャップ用の1合びんと5勺びん

宮内庁御用達の特殊びん(2,400cc)

宮内庁御用達の特殊びん(2,400cc)

1合びん、5勺びんの時代が長く続いたが、戦後高度経済成長にともなって、牛乳は急速に普及し、一時は2合びん(28年)や3合びん(34年)も現われ、昭和40年頃には5合びんや500ccびん(ファミリーサイズ)がみられるようになった。昭和45年頃には1合びんも消費拡大の推進によって200ccびんに変っていった。

びんに印刷が行われるようになったのは、昭和27年頃からであり、それまでの共通白びんや刻印文字入りのびんからプラント名の入ったカラフルな一社専用びんになっていった。

これまでに使われた古いびんのいろいろ
左から、5合びん、500ccびん、2合びん、195cc乳飲料用びん、1合びん、5勺びん

これまでに使われた古いびんのいろいろ。左から、5合びん、500ccびん、2合びん、195cc乳飲料用びん、1合びん、5勺びん

◎びんの口径と色

びんの口径は当初はいわゆる細口びんであった。昭和の初期にキャップびんになるにしたがって、びん口径(キャップ径)はいろいろ種類がふえて、昭和8年頃には42.5mm径から23.4mm径まで9種類もあった。昭和8年の内務省令の改正により徐々に整理され、42.5mmのヨーグルト用(広口)と34.1mmの牛乳用(中口)が現在まで続いており、23.4mmのものは乳酸菌飲料に用いられている。びんの色彩については、青色,黄色など使われていたが、昭和2年の警視庁令の改正により、無色透明に規定された。戦時中廃物利用の再生びんが使われたため、一時黒いびんが出回ったことがある。

現在使われているびんのいろいろ。左から900cc、500cc、200cc、180ccびん

現在使われているびんのいろいろ。左から900cc、500cc、200cc、180ccびん

牛乳キャップとかけ紙

当初のキャップは輸入ものであり、昭和になって国産ものに変っていったが、初期のキャップは単にミルクなどと印刷されたプラント名の入らない共通キャップであった。当時はかけ紙によりびん口を被っていたので、これに必要な表示をしていた。

上段は曜日キャップ・下段は日付用キャップ

上段は曜日キャップ・下段は日付用キャップ

戦後、プラント名入りが主流となり、昭和43年の乳等省令の改正により曜日表示から製造日表示になって共通キャップは廃止された。

かけ紙(フード)

かけ紙は、戦時経済下昭和13年にゴムバンドと共に一時廃止されたが、戦後復活し、昭和33年から今日のポリエチレンのフィルムで被い熱着する方法に変っている。

かけ紙①(フード)(昭和30年頃のもの)

かけ紙①(フード)(昭和30年頃のもの)

かけ紙②(フード)(昭和30年頃のもの)

かけ紙②(フード)(昭和30年頃のもの)

紙容器のいろいろ

紙容器が我が国のワンウェイ牛乳容器として、最初に発売されたのは昭和31年であったが、当時は成功せず、昭和38年になって本格的に四面体のテトラバック180㎖が登場した。

以後ブリック型、ゲーブルトップ型が導入され、大型化(1000㎖)していった。

この間、大量消費時代に入ったのと同時に、大型スーパーマーケット等が現われ、ワンウェイという便利性もあって、紙容器は急速に普及した。昭和52年に紙容器の使用率はびんに並び、現在(昭和62年)ではその比率は78.5%となっている。

紙容器のいろいろ。左から、1000㎖、500㎖、1000㎖、180㎖、500㎖、200㎖

紙容器のいろいろ。左から、1000㎖、500㎖、1000㎖、180㎖、500㎖、200㎖

公正マークの出来上るまで

販売曜日から製造年月日(注1)

販売曜日から製造年月日(注1)

牛乳キャップの中央部を日付用に空白にした現行の牛乳キャップのデザイン

製造日が印字(例2) 牛乳キャップの中央部を日付用に空白にした現行の牛乳キャップのデザイン

公正マークの形状について(注3)

公正マークの形状について(注3)

公正マークの種類を数種類作り最終的にシンボル化も考慮して現在のマーク(短径5ミリ)に統一致される。

飲用乳の公正マーク(現在)

飲用乳の公正マーク(現在)

今日では他の公正取引協議会の範ともなり、公正マークは全国飲用牛乳公正取引協議会のシンボルマークとなっている。

参考文献

全国飲用牛乳公正取引協議会
二十年の歩み
昭和63年10月19日発行